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2011委嘱曲紹介:Sämann ─種を蒔く人─(作曲 信長貴富) |
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作者 Norikazu Ito
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2011/09/22 Thursday 11:46:59 JST |
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■名付けられない感情
あの日から私は、ごちゃ混ぜになった感情を名付けられないまま生活していました。地震や津波によって命を落とされた方々、大切な人を亡くされた方々、住むところを奪われた方々、現在も不自由な生活を余儀なくされている方々の悲しみや怒りは私の想像を超えるものであり、私の感情などは、安全な場所にいる人間の利己の範疇に漂っているものに過ぎないものなのだと思います。
ともあれこの春、混沌とした精神状態の中で私は新作合唱曲を書こうとしていました。複雑に絡み合った事象や心理に「言葉」を与えていくことが芸術の役割の一つだとすれば(音楽もある種の「言葉」だとして)、私はその役割を果たせず右往左往していました。特に原子力発電所の問題を直視するとき、抑圧された感情の鉛のようなものが内臓の底に重たく沈殿するのを感じ、どんな言葉も形にしようとした途端に燃え尽きて灰になってしまうのでした。
これまで被爆二世として合唱曲の中で核兵器の罪を訴えてきた私が、原子力事業に関してはまったくの無知・無関心であり、今日に至る状況を一市民として黙認し続けてきたというジレンマの鎖から自分を解き放せない状態にありました。怒りを表明することは、私自身の欺瞞に向き合うことに直結し、作曲行為の一歩を踏み出せずにいました。
一方、何かを表現したいという執念のような欲求も私の中にありました。そして名付けられないままの感情でもいいからそれを正直に音楽にして吐き出したいという気持ちに至りました。その結果吐き出された音楽は私のエゴそのものと言えるかも知れず、これを演奏家に託すことには罪悪感が伴いました。山脇卓也さん、須永真美さん、お江戸コラリアーずの皆さんには感謝以外の言葉が見つかりません。
■種を蒔くということ
「Sämann」という表題はミレーの絵から採っていますが、始めに私の頭にあったのは「種を蒔く」というキーワードだけでした。(日本のNPOが行っているナロジチ再生・菜の花プロジェクトという活動からの連想ですが、ここでは詳細を省きます。ご興味あればウェブで検索なさってみてください。)それがミレーの絵のイメージに結びつき、キリスト教との連関から詩篇126番の詩句「涙をもって種蒔くものは、喜びの声とともに収穫するだろう」に行き当たりました。作曲にはドイツ語のテキスト(ルター訳の1984年改訂版)を使用しています。
古代エジプト人にとって種を蒔くことは、オシリス(生産の神)の遺体(=種)を葬る(=蒔く)ことと考えられ、種蒔き時は悲しみの時とされてきました。これが「涙」の根拠となっており、曲の中でもTräne(涙)の語が重要なモチーフとなっています。それに対し、芽吹きは死からの再生を意味し、その延長上にFreude(喜び)がもたらされるという論理が成立します。Freudeの語も曲中で印象的に扱われていますが、語意に反し、再生の予兆が残酷に撲滅されるかのように、暴力的なピアノの音塊によって言葉は切断されます。それでもなお、歌い手は種を蒔き続けることを悲痛に宣言し、やがて咆哮とともに曲を閉じます。その叫びは、泣哭、怒号、神への抗議、あらゆる声が混ざり合ったクラスターであり、生きようとする人間の意志であると私は感じています。
作曲行為によって欺瞞が正義に変換されるわけではありません。しかしながら、自己の内面を観察することで、私の中の名付けられない感情に言葉を与えることができたように思えています。感情を名付け、悲しみも怒りも肯定し、発露の道筋をつけることが、生きる意志を持続させるために必要なことだと思うのです。このことが聞いてくださる方々の生き方と重なり合えるかどうか、初演を経てみなければ分かりませんが、何か分かち合えるものがあればと願っています。私の思いがどうであれ、曲の真価は厳しく問われなければならないと思います。どうか忌憚なくご批評いただければと思います。
信長貴富
<合唱団お江戸コラリアーず第10回演奏会「お江戸だよ、おっかさん!」パンフレットより転載> |
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最終更新日 ( 2011/12/27 Tuesday 21:49:13 JST )
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